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元治元年創業初期中山道宿場町の造り酒屋

小野酒造店の成り立ち

Ono Shuzo-Ten shop origin

夜明け前が一番暗い
Darkest before the dawn
 島崎藤村の代表作“夜明け前”の中で登場するこの一説は、動乱の幕末から明治維新へと向かっていく物語そのものを表しています。
奇しくも小野酒造店(屋号 千歳屋)の創業は明治維新前夜の元治元年(1864年)。

そんな動乱の時代に弊社は、小野庄左衛門正常(小野宿問屋より千歳屋に養子)により創業されました。

創業当時は屋号に因み“千歳鶴”と命名。

しかし、明治維新後商標登録の政令で先に登録した酒蔵があり、使用不能に。以来小野の古くからの呼び名に由来する“頼母鶴(たのもつる)”と命名、現在も一部商品で使用しています。

島崎藤村を尊敬していた5代目世代が、藤村生誕100年(昭和47年)に際し、藤村に因む銘柄を考案した結果、父 島崎正樹(夜明け前の主人公 青山半蔵のモデル)と小野は深い交流があった事、創業の時代などを考慮し、“夜明け前”に決め、藤村の嫡子であらした藤村記念館初代理事長・島崎楠雄氏より直接“夜明け前”の名を使うことを許していただきました。

島崎楠雄氏のことば

「 夜明け前の名をつけて販売するについて約束して欲しい。命に代えても本物を追求する精神を忘れることなく、一生を通じて味にこだわって営業して欲しい
私は商売や酒造りのことはよくわからないが、天下の『夜明け前』として堂々と、日本酒をご愛飲されている方のために真心を伝えて頑張り、酒を通じて世の中に貢献していって欲しい 」

この言葉の後、楠雄氏は筆を執り、弊社のために特別に“夜明け前序の章”を揮毫(きごう)して下さった。

島崎楠雄氏からいただいた強い言葉に、私達は元治元年創業した初代の酒造に賭けた気概を今一度思い起こし、新たな気持ちで酒造りを行っていくことを誓いました。

時代が流れた現在もその思いは受け継がれ、小野酒造店の酒造りの精神(Sprit)として常に生き続けています。

小野には豊かな自然が広がっています。
豊かな自然とは、一見耳障りの良い言葉です。しかし、自然と向き合って行くことは容易ではありません。突然の雨、凍りつく様な寒さ、穏やかな温もり。霧訪山の清らかな名水で育つ、美山錦を始めとする各酒米。

小野が育む自然と真摯に向き合い、日々敬意と感謝の気持ちを込めて造りを行うことで、小野酒造店の作品が一つ一つ生み出されていきます。

人の都合に合わせる様な酒造りはせず、常に自然との対話の中で醸し出される作品こそ、真に感動を届けられる一杯となる。

その一杯の感動を届けるため、小野酒造店では妥協しない酒造りを創業当時から今日に到るまで行なっております。

より良き酒造りを目指し、世の中に良酒をお送り続ける事により、
皆様の毎日が少しでも豊かになって頂けるように頑張っていきたい…
そんな思いで、これからも酒造りを続けていきます。

小野の土地と歴史

Ono Land and history

矢彦神社・小野神社

憑の里は、もともと一村であった。しかし、小野盆地において松本城主石川数正と飯田城主毛利秀頼による石高調整により、天正19年(1591年)11月23日、豊臣秀吉の裁定により盆地中央にある唐沢川を境に、まっぷたつに村分けされて以来、現在も辰野町小野(上伊那郡)と塩尻市北小野(塩尻市)に分かれたままである。

小野駅より北方、隣り合うように建てられている二つの神社がある。両者は古くは小野大明神と呼ばれ、一つの神社であった。
盆地が小野・北小野に分けられたことに伴い、神社境内も市川(イチ川)という小さな川により南方(みなみかた)が矢彦神社、北方(きたかた)が小野神社に分割された。
現在、信濃国二之宮矢彦神社・小野神社として名高く、全国的にも珍しいこの状態が現在に至るまで長きに渡り続いている。

1601年 1601年

御柱

矢彦神社と小野神社は諏訪大社同様、七年ごとの御柱祭(塩尻市無形民俗文化財)があります。諏訪大社が寅・申年に対し、こちらは一年違いの卯・酉年の開催となります。御神木は矢彦神社がモミ、小野神社がアカマツで、それぞれ氏子の手によって山から切り出され、郷をひかれ、境内に立てられます。さらに両社とも御柱祭年には祭神を遷(うつ)す遷宮祭(せんぐうさい)が行われています。
古来「人を見るなら諏訪御柱、綺羅(きら/きれいな衣装)を見るなら小野御柱」との言葉があり、豪壮華麗なお祭りで5月の里曳き、建て御柱祭には騎馬行列、浦安の舞、長持ち奉納、太鼓などで盛り上がり、多くの氏子と観光客で賑わいます。

御柱 御柱

たのめの里

小野地区は古くから松本・諏訪地方と伊那谷・木曽谷の境界であり、清少納言ゆかりの「たのめの里」とも呼ばれてる。(たのめ「憑」とは、清少納言の「枕草子」第62段「里は」で詠まれたもので、両小野地区のことを指している。)

御柱 御柱

小野宿の誕生

小野宿は慶長6年(1601年)、徳川家康によって江戸幕府が開かれた際、大久保長安によって下諏訪宿から岡谷市川岸を経て小野峠(三沢峠)を越えて小野に至り、西の牛首峠を越えて贄川宿に通じる、いわゆる初期中仙道が開鑿され、宿場も開かれた。
また、南北に通じる伊那街道は、北の善知鳥峠を越えて塩尻宿、南の川沿いに下がって宮木宿へと続いていた。

このように両街道の交差点として宿場は栄えたが、初期中仙道は1614年に廃道、十数年で小野宿を迂回する塩尻宿経由のルートに変更された。その後は伊那街道小野宿として、明治後期から昭和初期にかけて第2の岡谷と呼ばれるほど製糸工業が盛んとなり大いに栄えたと言われる。

1601年 1601年

小野宿問屋

小野酒造店のすぐ斜向い、同じ国道153号線沿いに今も薬医門を構える小野問屋は、その風格でひときわ目にとまる。
1678年、小野家5代八左衛門が伊那街道小野宿問屋役となり、以降、問屋役と小野村名主を兼務世襲し幕末に至った。
現存する建物は安政6年(1859年) 3月5日の大火後に再建されたもので、小野家は土蔵だけ焼失を免れた。



主屋は奥行き15.3m、間口18.9mの大規模な本棟造りで、外観は屋根の勾配内部は南側に広い土間があり、北側に式台玄関から続く部屋を3列に並べ、最奥には客座敷として上段の間を配している。

1601年 1601年

上段の間が一段高くなっているのは、本陣がなかった小野宿で、小野家が町では「江戸時代の宿場問屋の建築様式を今に伝える建造物」として文化財に指定し、問屋保存会も組織され修復と管理を行なっている。本陣的な役割を務めたことにより現在では4月から11月までの月1回と、春・夏・秋に特別公開を実施している。

上段の間が一段高くなっているのは、本陣がなかった小野宿で、小野家が町では「江戸時代の宿場問屋の建築様式を今に伝える建造物」として文化財に指定し、問屋保存会も組織され修復と管理を行なっている。本陣的な役割を務めたことにより現在では4月から11月までの月1回と、春・夏・秋に特別公開を実施している。昭和60年代初めまでは屋敷内の一角に管理人が住んでいたが、管理人亡き後、16代当主の小野康正さんによって平成3年に辰野町に寄贈された。2段の横梁をはじめ鳥脅しや懸魚 (けぎょ)、格子窓など様々な技法が駆使されている。

               

昭和60年代初めまでは屋敷内の一角に管理人が住んでいたが、管理人亡き後、16代当主の小野康正さんによって平成3年に辰野町に寄贈された。2段の横梁をはじめ鳥脅しや懸魚 (けぎょ)、格子窓など様々な技法が駆使されている。

小野酒造店創業

元治元年(1864年)明治維新前夜。
初代小野庄左衛門正常によって屋号「千歳屋」として創業。
創業当初は屋号にちなみ「千歳鶴」の販売を開始。後に「憑の里」と呼ばれていた地名にちなみ、「頼母鶴」と名称を改め現在も地元にて愛飲されている。

小野酒造店創業 小野酒造店創業

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